新地球日本史(4)(2004/08/07)【新地球日本史】(30) 明治中期から第二次大戦まで 西洋人の見た文明開化の日本(6) キリスト教国民だけが文明の民か 明治四-六年(一八七一-三)、岩倉使節団が欧米諸国を視察したとき、行く先々の国で、日本政府のキリスト教対策が非難の的となった。日本がまだ、江戸時代以来の切支丹(キリシタン)禁制の高札を撤去していなかったからである。 欧米諸国の間では、当時、キリスト教国民のみが文明の民であるという理解が常識となっており、キリスト教国民を異教徒の法の支配下におくことはできないという考えが広く行われていた。これに対応して、日本政府は明治六年二月に高札を撤去した。 そのころ、政府の一部には、条約改正による治外法権撤廃のためには、天皇以下、政府高官がこぞってキリスト教に改宗すればよい、といった極論まであったらしい。しかし、長い文化的伝統に根ざし、人間の精神生活の根源にかかわる宗教の問題を、そうした政策上の便宜的手段に利用しようとする浅薄なアイデアは、とうてい実行できるものではなかった。 さて、「異教徒」にキリスト教の神の福音を伝道するという強い使命感をもって来日したグリフィスは、平生は日本人の文化的伝統や生活習慣を、公平な深い理解と温かい愛情をもって観察しているのだが、宗教問題となると、いささかその見解は不寛容になる。 東京の浅草見物では、欧米のキリスト教教会と異なる日本の仏教寺院の聖俗混沌(こんとん)とした雰囲気に違和感を覚え、ときには強い拒絶反応を示す。浅草寺の不潔で騒々しい本堂の中では、とても敬虔(けいけん)な気持ちにはなれないとし、寺から出ると「僧侶の寺にとじこめられた息苦しさから神の栄光の限りない創造の自由への変化の何とうれしいことか。…心の中でキリスト教の信仰生活が生き生きと活動しだすのがわかる」と述べている。 このあたりは、バードが信心と遊楽が混じり合った浅草にいたく好奇心と興味を刺激されて、何度も単身でここを訪れ、そのたびに「変化と新奇さ」を見出したのとは、好対照であった。 一方、モースは、東京大学理学部動物学教授に就任すると、大胆にもキリスト教のタブーに挑戦する行動に出た。何とキリスト教の安息日である日曜日に、学生ばかりか学外者も集めて、進化論についての公開講義を開いたのである。 いうまでもなくダーウィンの進化論は、モースの母国アメリカでは、聖書の天地創造の物語に背き神を冒涜(ぼうとく)するものとして激しい非難を受け、二十世紀になってからさえも、公教育で進化論を教えることには強い反対があったほどである。 モースの講義は、日本でも西洋人宣教師の反対にあい、学生の中には、出席を見合わせるよう忠告を受けた者もいた。しかし、もともと進化論の妨げになるような宗教的タブーは日本にはなかったから、彼の講義は大人気を呼び、会場は常に満員だったという。そして進化論はたちまちのうちに日本国内に普及していった。 (大東亜戦争での日本兵捕虜が、収容所で大学出たばかりの少尉に進化論教えられて「なんだそんなもん。とっくに一般的さ」って言ってびっくりされたような描写があったかな。そりゃこの当時から普及してたんじゃあ尤もだわなw) すでに故国に帰っていたグリフィスは、モースが来日する前年、日本での研究と体験をもとにして、ニューヨークで著書『皇国』を出版した。その中で彼は、日本がキリスト教国となることを通じて文明化・強国化することに期待をかけ、「全能の神の下に、日本はやがて世界の主要な国々と平等の位置を占め、太陽とともに前進する文明国として、日本が世界の歴史の舞台に今こそ登場しつつあるアジア諸国の指導的立場を取るであろう」と予言している。 グリフィスの予言は半ば的中したが、日本がキリスト教国になるという期待は実現しなかった。日本は西洋の文物を広く受容したが、その精神的支柱たるキリスト教は、一部の知識人に影響を及ぼす程度にとどまった。多重(?「自然」でしょ?)信仰という日本人の伝統ゆえか、一神教の教義は国民の間には定着しなかったのである。 日本近代史の重要な歴史的意義は、グリフィスの期待とは逆に、キリスト教国民だけが文明の民になれるという神話を打ち破った点にあったといえよう。 (東京大学名誉教授 鳥海靖) (2004/08/10)9(月)は休刊日 【新地球日本史】(31) 明治中期から第二次大戦まで 大津事件-政治からの司法の独立(1) 日本中が震えた露皇太子遭難 明治維新後の我が国は、全力で近代国家建設に取り組んでいた。その過程で起きた大事件が、大津事件である。これは、明治二十四年(一八九一)五月十一日、来日中のロシア皇太子ニコライが、滋賀県大津市において、津田三蔵という警備の警官にサーベルで切りつけられて負傷した事件である。 当時ロシアは世界一の大国であった。我が国の隣国でもある。我が国は幕末、外圧に屈服して、ロシアを含む列国と、相手国に治外法権を認め、日本に関税自主権がない不平等条約を結んで国交を開いた。 この不平等条約を引きついだ明治維新政府にとって、条約改正は国家最大の目標であった。実際に治外法権撤廃が認められたのは、日清戦争の直前の明治二十七年、関税自主権の確立はなんと明治四十四年のことである。 日本政府は、ロシア皇太子ニコライが皇帝の名代としてシベリア鉄道の起工式に出席するために、インドからアジアを経てウラジオストクにおもむくとの情報を手に入れ、皇太子の来日を招請した。 皇太子は明治二十四年五月一日ころ来日し、約一カ月間、我が国に滞在することになった。皇太子は、すでに前年の十月に出発し、ポーランド、オーストリアを経て、アドリア海で待っていたロシアの軍艦に乗船し、エジプト、インド、東南アジア、中国などを周遊して日本に向かった。日本政府は、ニコライを国賓として歓迎することにして、万全の体制を整えた(吉村昭『ニコライ遭難』新潮文庫)。 皇太子は軍艦数隻を従えて、四月二十七日、長崎に入港した。我が海軍は、当時の日本海軍の造船技術を駆使して横須賀で建造された国産の新鋭艦をもって出迎えた。これはロシア皇太子に日本海軍の力を示す意図があったといわれている。 当時の日本海軍の新鋭艦は、ロシアの軍艦と比較してはるかに小さく、かつ基本的に木造であった。ロシア海軍には、千トン以上の鋼鉄艦は三十八隻もあり、この中には一万トンや八千トンのものが八隻あるのに対し、我が国は千トンから三千七百トンの軍艦七隻を持っているだけであった(田岡良一『大津事件の再評価 新版』有斐閣)。陸軍に至っては、ロシアは世界一の陸軍国であるから、日本の陸軍は問題にならなかった。 ニコライ皇太子の一行は、長崎での滞在を満喫したのち、鹿児島を経て、五月九日に神戸に到着し、神戸市内を見学したあと京都へ向かった。京都市内各所を見物、宿泊。十一日朝八時半にホテルを出発、大津に向かった。三井寺、琵琶湖などをめぐり、県庁で昼食をとって、午後一時半すぎ、京都に戻ろうとして大津市内を進んでいる途中に事件が発生したのである。 皇太子の傷は、頭部の切り傷で、出血は多かったが、生命に別条はなかった。 大津事件が起こったとき、天皇から一般庶民に至るまで、日本中がふるえた。このニュースが伝わるや、報復のためすぐにでもロシアが攻めてくるのではないかという風評がとんだ。政府首脳部の中にも、ロシアは千島列島を賠償として要求し、あるいは日本に宣戦布告するのではないかというものもいた。 山形県のある村の村会では、明治二十二年四月に市町村制が施行されてから二番目の村条例を採択した。その条例は、その村の住民は津田という姓をつけてはいけないこと、子供に三蔵という名をつけてはいけないという内容であった。現在でも自衛隊員には住民登録を認めないとか、オーム信者の子供の小学校入学を認めないといったおろかなことが行われたことがあるが、それと同じである。 ニコライ皇太子の滞在していた京都のホテルには膨大な見舞品が全国から寄せられた。都道府県の代表者が、続々と見舞いのために京都に向かい、電報も殺到した。全国の学校は謹慎の意を表して臨時休校し、神社、寺院、教会では平癒の祈祈祷(きとう)をし、歌舞・演舞などの興行は休業した。 五月二十日には千葉県鴨川出身の畠山勇子という二十七歳の女性が京都府庁前で剃刀でのどを切って自殺した。 (弁護士 高池勝彦) (2004/08/11) 【新地球日本史】(32) 明治中期から第二次大戦まで 大津事件-政治からの司法の独立(2) 政府の圧力に抗した大審院長 明治天皇は事件翌日の五月十二日、京都へ行幸(ぎょうこう)され、事件の処理に全力を尽くされた。日本側はその後の日本における日程の消化と東京訪問を強く望んだが、ニコライ皇太子は日本を離れることになった。離日予定の十九日に、天皇は皇太子を神戸御用邸での午餐(ごさん)に招待しようとされた。しかし、ロシア側はそれを断り、逆にロシア軍艦上での午餐に天皇を招待した。朝鮮の大院君が清国に拉致された事件を思い起こして大臣や侍従たちは反対したが、天皇は泰然とその招待をお受けになった。ロシア艦隊は夕方、ウラジオストクに向けて出港した。 この事件について、犯人の津田三蔵に対する処罰が問題となった。津田に適用される当時の刑法は、明治十五年(一八八二)一月一日に施行された。十八年十二月二十二日に内閣制度ができ、二十二年二月十一日に大日本帝国憲法が公布された。翌年の七月一日に第一回衆議院選挙が行われ、十一月二十五日には第一回帝国議会が召集された。その翌年の五月に大津事件がおこったのである。 この刑法第百十六条は天皇、皇后、皇太后、太皇太后、皇太子に対し危害を加えたり、加えようとしたりした者は死刑にするという規定(皇室罪)であった。この「皇太子」にロシアの皇太子が含まれるかどうかが問題であった。含まれれば犯人は死刑となる。一般人の殺人についての規定は現在の刑法とは異なり、謀殺と故殺に分かれており、謀殺は第二百九十二条で死刑とされていたが、未遂の場合は一等または二等を減ずることになっていた。死刑を一等減ずると無期徒刑となる。 ロシア側、特に駐日公使シェーヴィッチは、津田を死刑にすることを強力に主張した。当時、我が国はどの国とも大使を交換しておらず、数カ国と公使を交換していた。我が国がはじめて大使を交換したのは明治三十八年、イギリスとの間においてであった。 元老伊藤博文や総理大臣松方正義をはじめとして政府は、犯人に皇室罪を適用することで一致し、大審院長の児島惟謙(これかた)に対して、ロシアの感情を考慮して皇室罪の適用を説いたが、児島は反対した。また大審院の判事や司法省の会議でも、司法大臣山田顕義の説得にもかかわらず、全員がそれに反対した。山田司法大臣は皇室罪審理のため、検事総長を通じて大津地裁に管轄違いの訴えを提起した。当時の法律で、皇室罪は大審院の専属管轄とされていたからである。 大津地裁に大審院から七人の担当裁判官が派遣された。裁判は大津地裁を使用して行われることになったのである。担当裁判官には個別に各大臣が皇室罪適用の説得工作を行い、裁判官は一応その説得に同意したのである。児島はそれでも裁判官を翻意させようとして裁判官らと一緒に京都に同行した。児島は個別に、犯人に皇室罪を適用しないように説得した。そして五月二十七日に開かれた裁判において、判決は児島の説得どおり、一般の謀殺未遂罪が適用され、津田に無期徒刑が宣告された。津田は同年九月二十九日、北海道釧路の刑務所で肺炎のため死亡した。 以上の事実について、通説はこういっている。 政府の元老や閣僚たちは対露関係の悪化をおそれて皇室罪の適用を主張した。政府の主張は、国家あっての法律であり、まず国家の安泰を第一に考えるべきである。皇室罪を適用しなかった場合、ロシア艦隊が品川沖にあらわれて東京に砲弾を撃ち込み、我が国は砕け散るかもしれない。法律論のために我が国が滅亡してもよいのか、というものである。 これに対して児島は、二年前に憲法が公布され、一年前にはじめての国政選挙が行われて議会が開かれ、我が国が近代的な立憲国家としての一歩を踏み出したというこのときに、法律を曲げるようなことをすれば、憲法を破壊し司法権の信用厳正を失墜させることになり、ひいては列国から軽蔑されることになると主張した。このことによって、児島は「護法の神」とよばれ、我が国の司法権の独立を確立させた最大の功労者として脚光を浴び、現在にいたっている。 (弁護士 高池勝彦) (2004/08/12) 新地球日本史】(33) 明治中期から第二次大戦まで 大津事件-政治からの司法の独立(3) 大審院長の行動は違法の反論も 前回に述べた解釈にはいくつかの有力な異論がある。第一は著名な国際法の大家、故田岡良一教授による異論である。田岡は大審院長児島惟謙の行動には問題があり、むしろ児島の主張は間違っているという。 田岡は、ロシア皇太子来日に際し、ロシアの駐日公使シェーヴィッチが、皇太子来日中、万一危害を加えられた場合、皇室罪により処罰することを要求し、外務大臣青木周蔵がそれに同意したと主張し、これを「青木シェーヴィッチ協定」と呼んでいる。国際協定がある場合、我が国はその合意に拘束されることになる。しかも、その合意に沿った国内法が存在しない場合には国際法が適用されるべきであり、犯人に死刑判決をくだすべきであった、というのである。 田岡は、大津事件の経緯を詳細に分析した。我が国政府や世論の動向は、当初はロシアの強硬な態度からパニック状態に陥ったが、ロシアがその後攻めても来ず、損害賠償さえ要求してこないことがわかってからは、むしろ犯人に対する賛美の風潮さえ表れはじめた。そのようにロシアの平和政策が明らかになってもなお政府が皇室罪適用にこだわったのは国際協定が存在したからである、という。 さらに田岡は、判決や児島の行動にはいくつかの違法行為が含まれていると非難する。第一に法解釈として国際法に従って犯人に皇室罪を適用すべきであるのに反対したこと。第二に裁判所内部の問題として、自身は担当裁判官でもないのに担当裁判官に具体的事件について強力にはたらきかけたこと。第三にもし皇室罪ではなく通常の謀殺未遂罪で裁くのであれば、大津地裁の管轄であり、管轄権がないのに大審院が判決したことである。 この田岡説に対しては、たしかに青木外相とシェーヴィッチ公使との間には皇太子の来日前にいろいろなやりとりがあったようではあるが、国際協定と呼ばれるものがあったとまでの証拠はないとするのが通説である。また協定が存在したとしても、通常の謀殺未遂の規定があるのであるから、皇太子に危害を加えた犯人に対する処罰規定がなかったとはいえない。そうでなければ、犯人は最高で無期徒刑ですむのに、選択の余地なく死刑判決を受けることになってしまう。 この田岡説に対して、裁判所に圧力をかけたのは国際協定の存在ではなく、明治天皇であったという新説が現れた。天皇は、事件収拾のイニシアチブをとったばかりではなく、裁判所が犯人に対して皇室罪を適用するよう強力に迫った、とするのである(新井勉『大津事件の再構成』御茶の水書房)。 さて、事件後のニコライ皇太子だが、皇太子は明治二十四年(一八九一)五月二十三日、ウラジオストクに到着してシベリア鉄道の起工式に臨んだ。それから三年半後、ロシア皇帝アレクサンドル三世が突然死去し、二十六歳で即位してニコライ二世となった。 ニコライ二世は、日清戦争後、三国干渉によって日本に強圧を加え、日本が清国から取得した遼東半島を清に返還させ、かわりにロシアが遼東半島を租借して、強力な旅順要塞を築いて我が国に対する軍事的圧力を強化した。 日本は「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」を合言葉に富国強兵につとめているうち、日露間はますます険悪となり、明治三十七年(一九〇四)二月、日露戦争がはじまった。戦争は三十八年九月五日のポーツマス条約調印によって終了した。しかし、ロシアの内部の革命勢力は次第に強力となり、大正三年(一九一四)に勃発した第一次世界大戦中の六年三月、ロシア革命によりニコライ二世は皇帝の座を追われた。その年の暮れには家族とともにエカテリンブルクに移され、翌(1914(大正4)年七月十七日、共産党の手によって全員射殺された。 近年になって遺骨が発見され、それが皇帝のものであるかどうか、DNA鑑定が行われた。鑑定の際、我が国に残されていた血染めのハンカチのごく一部が使用されたとの話もある。ニコライの数奇な運命を物語っている。 (中公文庫で「皇女アナスタシア」の曰く因縁話の類を読んだな) (弁護士 高池勝彦) (2004/08/13) 【新地球日本史】(34) 明治中期から第二次大戦まで 大津事件-政治からの司法の独立(4) 江戸期からあった「法の支配」 大津事件は、我が国の司法権独立の象徴として扱われてきた。司法権の独立は、法の適用については、立法府や行政府からの干渉を受けないということを意味する。この基礎には、個人の権利を守るためには、法の恣意(しい)的な適用を排除しなければならない、という要請がある。 しかし、司法権が立法や行政からの干渉から独立しなければならないというのは、司法権の独立の一面にしか過ぎない。このほかに、たとえば世論その他の圧力からの干渉をも排除しなければならないのである。このことはフランス革命の際、民衆の歓声だけで死刑が宣告されたこと、近くは大東亜戦争後の東京裁判や各地でのBC級軍事裁判を想起するだけで十分であろう。 司法権の独立の原則は、「法の支配」の原則とも密接に絡んでいる。法の支配は単に法律に従って司法行政が行われること(それは法治主義とよばれる)を意味せず、法の内容と適用が正義にかなっていること、法の恣意的な適用を排除すること、国王や支配者その他影響力を持つ者の専横から国民を守ること、さらに法を場合によっては柔軟に適用するということまでも含む広い概念である。 したがって、どうしても慣習とか先例とかの積み重ねが重視されることになる。そこで、法の支配の原則は判例主義をとるイギリスで発達し、アメリカに受け継がれていると通常いわれている。法典主義をとるドイツやフランスが法治主義をとっていることと対比されるのである。 この法の支配の原則という観点から我が国の司法制度を眺めてみると、我が国は、相対的には早くからこの原則が守られていたと思われる。 進歩的学者の主張に影響されて、我が国では、人権意識が発達しなかったことやお上の意識が強いことなどから、法の支配はもちろん法治主義も明治憲法になってからやっと取り入れられたものであり、それも権威主義的要素が極めて強く、法の支配など夢のまた夢のように考えられてきた。しかし、江戸時代の司法制度は、ドイツやフランスの大陸法系というよりも、イギリス法的な判例主義的要素が強く、法の支配の系譜につながるといってよい。 法の支配が守られるためには、慣習とか伝統といった要素のほかに、司法担当者の廉直性が不可欠である。司法担当者の廉直性は、他の行政担当者、その他一般人などの廉直性と密接な関連を有する。 江戸時代の日本人の廉直性については多くの資料がある。ハインリッヒ・シュリーマンは、トロイ遺跡発掘前の世界一周旅行の途中、江戸時代末期の日本に約一カ月滞在した。彼は横浜港に到着した際、中国では船頭から通常の四倍以上もの金額を要求され、その値下げを交渉しなければならなかったのに、最低金額だったこと、さらに税関でわずかの賄賂(わいろ)を渡そうとしたら、官吏がそれを受け取ることを拒否したことに驚いている(『シュリーマン旅行記 清国・日本』講談社学術文庫)。 (コレは未だに変わらずw 値切られるのを見越して吹っかけてくる。吹っかけてるの解かってるから値切る、という悪循環w つまりは、民度ですよ) 幕末に来日した外国人は、我が国の平民がヨーロッパの国々にその比を見ないほどの自由を有しているとか、法規は厳しいが、裁きは公平であると述べている。また、「政府がいかにその臣民の権利を尊重するか」の一例として、こうしたケースをあげている。 政府が外国人のために土地を買収しようとしたが、その土地に住んでいる貧しい農民は応じないため、政府はさらに二倍三倍の賠償金を提示した。しかし、これも拒否されたため、政府はやむを得ず、他の不便な場所にある土地を購入せざるを得なかった。奉行は強制収用する立場にはなく、強制収用法も存在しなかった-と(渡辺京二『逝きし世の面影』=葦書房=から孫引き)。 大津事件において、裁判所が行政府その他の圧力に対して抵抗し、施行されたばかりの憲法のもとで、よく司法権の独立をまっとうできたのにはこのような我が国の伝統があったからである。大津事件の処理について問題点があったとしても、大津事件が我が国の司法権の独立に寄与したことは疑いがない。 (弁護士 高池勝彦) (2004/08/14) 【新地球日本史】(35) 明治中期から第二次大戦まで 大津事件-政治からの司法の独立(5) 現在の司法に見られるゆがみ 日本の現行憲法は、大日本帝国憲法と同様、司法権の独立を定め、さらに違憲審査権をも定めて、司法権の地位を一層高めている。しかし、司法権の独立を確立したといわれる大津事件の伝統を、よく保持し得ているであろうか。 違憲立法審査権は、個別の事件を通じてその事件に適用される法が憲法に適合しているか否かを審査するもので、法の支配を一層確保しようとするものである。個別の事件を通じて判断することから、裁判官には事件そのものを、伝統や慣習の上に立った幅広い常識をもって判断することが要求される。その判断の基礎には権力や金銭、その他の判断を狂わせるような勢力から影響を受けない廉直性が必要である。 この点から、現在の我が国の司法権の独立の問題を考えると、はなはだ問題である。現在の司法権の独立をゆがめているのは、国家権力ではなく、むしろ漠然としたある種の勢力や観念である。 たとえば、戦争中、日本兵により被害を受けたと主張する中国人が、日本国に対して損害賠償を請求した事件において、結論としては、中国人の請求がすべて認められないといっておきながら、判決理由の中で、「敗戦に至るまでの間に我が国がアジアの人々に対してした多大の侮辱的行為や侵略的行為について、我が国は、今後も反省し続け、将来にわたるアジアの平和と発展に寄与すべく最大限の努力をしなければならないというべきであり、これを否定することはおよそ許されない」などと述べる裁判官がいる(平成十一年九月二十二日、東京地裁判決。判例タイムズ一〇二八号八十ページ)。 この裁判官は、裁判所が歴史を判断する場所でもないし、歴史を判断する能力もないが、あえて述べる、といっているのである。 (アホですかw 素人以下でしょ また、小泉純一郎首相が靖国神社に参拝したことによって、自分の信教の自由が侵害された、として国に対して損害賠償を請求した事件において、損害賠償を認めないと判断しておきながら、総理大臣の靖国神社参拝は憲法違反にあたると、次のように述べた裁判官もいる。 「靖国神社参拝の合憲性について十分な議論も経ないままに(首相の参拝が)なされ、その後も靖国神社への参拝は繰り返されてきたものである。こうした事情に鑑(かんがみ)るとき、裁判所が違憲性についての判断を回避すれば、今後も同様の行為が繰り返される可能性が高いというべきであり、当裁判所は、本件参拝の違憲性を判断することを自らの責務と考えた」(平成十六年四月七日、福岡地裁判決)。 この判決は、「靖国神社参拝の合憲性について十分な議論も経ない」など、事実認識が誤っているばかりではなく、国が控訴できないことを利用して独善的な意見を開陳して反論を封じている。 (自分だけいい子ってな感じだねw 祖先だけが悪いんだぁってか このような判決は下級審ばかりではない。いわゆる「政教分離」について最高裁はある程度宗教的な行為であっても、その行為の目的が宗教的意義をもたず、その効果が宗教に対する援助などにあたらないものは許されるとした「目的効果説」をとってきた。ところが平成九年の愛媛玉串(たまぐし)料訴訟最高裁判決は目的効果説を踏襲したふりをしながら、県職員が靖国神社などの玉串料として一回五千円-一万円合計十数万円を支出した行為を目的からも効果からも限度を超えているから憲法違反であるとした。 この判決では、反対意見の一つが、多数意見について、「およそその実体を欠き、徒(いたず)らに国家神道の影に怯(おび)えるもの」であると述べている。 (「国家神道」自体が、「戦後作られた」分類概念らしいですね) 以上は、我が国の裁判官が、伝統や慣習から離れて、宇宙人のような抽象的な存在として個別の事件を判断したり、またある特定のイデオロギーや歴史観から判断している例である。これは決して司法権の独立ではない。 このような裁判所の傾向は、全体からみればまだまだ少数とはいえ、ここ十年くらいの間に、以前とは比較にならないほど増えてきている。我が国の司法権の独立の長い歴史をゆがめるものであってはならない。 (弁護士 高池勝彦) (2004/08/16) 【新地球日本史】(36) 明治中期から第二次大戦まで 日本の大陸政策は正攻法だった(1) 東アジアで角逐する英・露 明治時代の「大陸政策」というと、支那・朝鮮方面への侵攻政策だと納得する者が多いと思う。だが、大陸政策を云々(うんぬん)する場合、欧米列強の東亜細亜(アジア)・太平洋方面への侵略行為をまず確認してから、我が国が近隣諸国といかなる関係を持つのが良策かとの観点から発する問題であることを認識する必要がある。 十九世紀中葉(一八四〇年代)以降日清戦争に至るまでのおよそ半世紀の欧米列強の動向と、その方向性や特性の概略から見てゆこう。 一八四〇年代初頭(天保年間)、大英帝国は、清帝国をアヘン戦争で威圧し、領土割譲と自由貿易関係への引き入れを強制することに成功した。その後、太平天国の乱などの混乱につけ入って、一八五六年(安政三)にフランスと同盟してアロー号戦争を起こし、北京を制圧、先の南京条約の不平等性を超越する北京条約(一八六〇年=万延元)を結ばせて、経済的・軍事的指導権を掌握したのである。 大英帝国は、我が国を地政学的観点から露西亜(ロシア)帝国の太平洋方面への勢力伸長を牽制(けんせい)する軍事的要点として重視した上で日英通商条約を結んだのであった。 広東の英国総領事としてアロー号戦争で活躍し、一八五九年(安政六)駐日英国総領事、のち公使に昇任、一八六五年(慶応元)に駐清公使に転出するまで攘夷運動が活発だった難しい時期に駐日欧米外交官団のリーダー的存在として活躍したオールコックは、滞日記録『大君の都』にこう記している。 「英国は、東洋に大きな権益を持っており、日本はその東洋の前哨地である。…日本国が通商の額を増大するのに貢献できる程度は大して考慮に値しない」(下巻)と。 最大の関心事は、露西亜の満洲・朝鮮・日本方面への軍事的勢力拡大である。それは、英国の権益連鎖に大きな障害、脅威になる。 「露西亜の通商が伸長し繁栄しても我々としては何等恐れる必要はない。…しかし、軍艦とか軍港と言うような軍事力の優勢は、それほど強い防衛力を持っていない通商にとっては危険の源となる。露西亜は現在こういう軍事的優勢をこの水域に求めているように思われる。…侵略的な海軍国が、朝鮮と日本乃至(ないし)はその一部でも所有するならば、無尽蔵に近い資源を手に入れることになる」(中巻)と。 支那本土の権益を英国は圧倒的に抑えていたが、北方の蒙古・満洲・沿海州方面で露西亜は着々と南下政策を推進し、アロー号戦争のドサクサに乗じて沿海州を奪取(一八六〇年=万延元)した。 そして、露西亜の日本・朝鮮方面への南進は、一八六一年(文久元)二月に軍艦による対馬占領事件で現実になった。 半年後に英国は、艦隊の威圧で露西亜軍艦を対馬から退去させた。 また、オールコックは長州藩攘夷行動への英米仏蘭四カ国の報復行動・下関戦争(一八六三年=文久三年=六月)では指導的立場で関与したのであった。 オールコックは、こうも言っている。日本と外交関係を持ったからには英国は条約を尊重して「日本近海には軍隊は全然置かない」。それに対して、露西亜は条約関係を軽視して日本近海に常に強力な艦隊を配備するよう特に配慮している。これは英国の東亜細亜政策への真っ向からの障害・挑戦であると(『大君の都』下巻)。 要するに、幕末から明治前期の東亜細亜の正面で角逐(かくちく)するのは英国と露西亜である。英国は圧倒的に支那を抑えているが、露西亜やフランスも侵略の野望を隠していない。清帝国は国土は広大で人口も多く、その潜在能力は大きいと予測され、将来の動向は未知数で「眠れる獅子」の渾名(あだな)もついた。 なお露西亜はシベリア・沿海州・カムチャツカ・樺太開発に暫くは力を注ぎ、蒙古・満洲・朝鮮あるいは日本方面への侵攻は日清戦争前後になるし、将来性豊かな新興国家米国が太平洋に勢力を拡大し、東亜細亜方面への勢力拡張に本腰を入れて乗り出すのは日清戦争後であることをまず確認しておこう。 (大正大学教授・高知大学名誉教授 福地惇) (2004/08/17) 【新地球日本史】(37) 明治中期から第二次大戦まで 日本の大陸政策は正攻法だった(2) 日清鮮同盟か満鮮制圧か さて、欧米列強の東亜細亜(アジア)における領土拡張と権益拡大の角逐(かくちく)情況の只(ただ)中に置かれた幕末期の為政者・知識人の間に、欧米列強の動向への対応策を構想させたのは当然のことであった。 安政年間、欧米列国との条約締結問題前後から東亜細亜に勢力伸長を進める欧米列強の相互関係や国力の優劣、あるいは支那・朝鮮方面の現状への認識も深まった。 流動的・緊迫的な国際情勢をにらんだ「大陸政策論」は、大別「日清鮮同盟論」と「満鮮制圧論」とに代表されよう。 両論は明治時代から大東亜戦争敗北まで政治・外交・軍事の世界を貫流したが、「大陸政策論」にのみ視野を奪われてはいけない。その背景には厳然として欧米列強との関係いかんへの配慮と考察があることである。 幕末期、吉田松蔭や橋本左内や勝海舟の対外論はまさにその証左である。 吉田松陰は安政元年冬に野山の獄中で執筆した『幽囚録』に大陸政策論を展開した。我が国は島国だから今までは海が防壁となり安全を確保しやすかったが、近時「火輪の舶作られるに及んで…海外万里も直ちに比隣となる」に至り状況は急変した。本拠地は甚だ遠隔だが、英国は近時隣の大国清を制圧した。また露西亜(ロシア)と米国とは我が国にとり「深患大害を為す」ものだ。露西亜は一衣帯水のカムチャツカ・沿海州などに軍港を建設して海軍の威力を増大している。米国は太平洋の対岸遠隔地だが「比隣を蚕食しつつ」列強仲間に参入し、海を挟んで本邦に対面するカリフォルニアから東亜細亜への侵攻の機をうかがうありさまだ。 露西亜も脅威だが米国もそれに劣るものではない。それゆえ、わが国防を固めるには富国強兵を図り、カムチャツカ・沿海州を奪取し、琉球を藩属せしめ、朝鮮を攻略し、北は満洲、南は台湾・ルソンの諸島を版図に加え「漸(しだい?)に進取の勢いを示すべし」である、と気宇壮大な国家戦略論を示した。 松陰はまた、俊秀を選抜して欧米各国に派遣し、国際軍事情勢や制度・文物諸般の知識吸収に当らしめよ、と主張している(全集第一巻)。 (留学の奨め。自分が魁となろうとして捕縛された) 相当大胆な列強対抗論・大陸膨張論であって、この論理では対露戦争になるし、他の列強との関係いかんへの配慮は薄いのであるが、開国直前におけるその立論の独立自尊への気概を汲み取るべきであろう。 次に越前福井藩士、橋本左内は、安政四年十一月、藩重役村田氏寿にあてた書簡で、明確に「日露提携論」を打ち出した。橋本は、米国は友好関係を持ちやすい国だが、「英・魯(露)は両雄並び立たざる国故、甚だ以て扱い兼ね」る。だが、将来の世界は同盟国体制になり、盟主を立てて戦争は休止するだろう。「右盟主は先ず英、魯の内にこれ有るべく候。英は剽悍貪欲、魯は沈摯厳整、何れ後には魯へ人望帰すべく存じ候」と予測する。 だがそこに至る前に、英国は露西亜の南進を抑止する目的で我が国に「先手(先陣)」を求めるか、あるいは蝦夷・函館の租借を求める可能性が高い。 「その時、断然英を断り候か、又は従い候か、定策」あるべきだ。自分は日露提携論を取る。優勢な英国を掣肘(せいちゅう)するために露西亜と提携して、「山丹・満洲の辺、朝鮮国を併せ、且亜墨利加(アメリカ)洲或いは印度(インド)内地に領を持たずしては、とても望みの如くならず」と主張した。 満鮮領有ともなれば露西亜との衝突はどうなるのか問題は多いが、安政の大獄で非命に倒れた吉田松陰も橋本左内も明治の政治家に大きな影響を及ぼした。 なお明治を生き延びた勝海舟の大陸論も重要である。勝は「日支鮮三国同盟論」を以て欧米列強に対抗しようと有志に提唱したが、その立論はもちろん統一国家形成・富国強兵政策を前提としていた(『海舟日記』文久三年四月)。 要するに欧米列強の東亜細亜侵攻と近隣諸国の動向という双方の形勢推移にどう対応・対処するか、大陸政策といわず日本外交の諸難題はここに集中していたのである。 (大正大学教授・高知大学名誉教授 福地惇) (2004/08/18) 【新地球日本史】(38) 明治中期から第二次大戦まで 日本の大陸政策は正攻法だった(3) 「万国公法」尊重の外交政策 明治新政府が最初に掲げた政策大綱は、慶応四年(一八六八)三月の「五箇条の御誓文」と同時に発せられた「億兆安撫(あんぶ)の宸翰(しんかん)」に表明された。 その要点は、「近来宇内大いに開け、各国四方に相雄飛するの時に当り、独り我国のみ世界の形勢に疎く、旧習を固守し一新の効を計らず…一日の安きを偸(ぬす)み、百年の憂いを忘るゝ時は、遂に各国の陵辱を受け」よう。それゆえ、ここに国家・国民保全の道を建立するための国是を定める。 それは「知識を世界に求め」「旧来の陋習を破り天地の公道に基」いて国民上下全体が適材適所、志を成就できるような国家・社会体制を構築し、議会政治で「万機公論に決し」、挙国一致の政治・経済を推進することだと宣言したのである。 さて、旧幕府が欧米諸国の威圧に屈して通商条約を締結したのは、これより十年前、安政五年(一八五八)だった。 幕府首脳部は開国・貿易は本来不本意だったが、彼我(ひが)の軍事力とその背景にある経済力の厳然たる格差を認識したから、この屈辱を甘受したのであった。 新政府は、慶応四年正月十五日に欧米各国公使に王政復古を通告、同月二十日、旧幕府が締結した諸条約を遵守すると各国に通告した。次いで二月十七日、国民に「外国との和親に関する諭告」を発した。 (ココが支那朝鮮との大きな相違点。「革命外交」なんて出鱈目もいいとこw) 欧米列強が近代的軍事力・経済力・技術力を盾にする国際情勢において、我が国は近代国際社会の条約体制に組み込まれたわけで、これを拒絶すれば欧米列強の「信義」を失って、さらなる苦境に結びつくので、屈辱的な不平等性を当面は耐え忍び、「皇国固有の御国体と万国の公法とを御斟酌御採用」を内政と外交の基本方針に定め、強力な国家を建設する必要があると説明した。 新政府を構成した勢力は、せんだってまで鎖国攘夷を主張して幕府に対抗してきたのだから、この告諭は、外交方針の大変更である。 そこで「唯急務とする所は、時勢に応じ活眼を開き、従前の弊習を脱し、聖徳を万国に光耀し天下を富岳之安に置き、列聖在天之神霊を可奉慰、上下挙げて此の趣意を可奉謹承候」と高飛車に弁明したが、それは独立自尊の気概を表明して国民大方の納得を獲得しようとしたものである。 戦後の歴史学徒は、これを大陸膨張の侵略主義の宣言だと解した者が多いが、それは浅薄な理解である。 ところで明治新政府の要人は、独立自尊の気概に溢れていたから、不平等の屈辱に安閑とはしていない。 そして「万国公法」の条理を鵜呑みに尊重していたわけでもない。 明治二年二月に岩倉具視は閣議にはかる意見書で欧米列強の国家間競争の激しさを認識すれば、「海外万国は皆我が皇国の公敵なり。是を以て今より皇国の海外万国と交際するは、皇威を堕さず国権を損ぜざるを以て大眼目とすべし」と言い不平等条約の改正作業の重大性を強調した(『岩倉公実記』)。 明治四年の岩倉遣外使節団は、不平等条約改正への最初の取り組みだった。 同じ時期に横浜港で起きたマリア・ルス号事件への外務卿・副島種臣の対処法は、「万国公法」に則り特別法廷を開き、駐日各国領事立会いで奴隷貿易の非と支那人奴隷の解放を判決し、露西亜(ロシア)皇帝の仲裁裁判で勝利したが、これは明治新政府の「万国公法」を正面に据えて自主外交への気概を示す事例だった。 岩倉は、「日支鮮三国提携論」者であった。 「清朝、朝鮮の如き古より我が皇国と好(よしみ)を通じ且尤も隣近なり。而るに輓近国勢萎靡(いび)して振はず。朝鮮は贏弱且小なり。然れども共に亜細亜洲(アジア)に在て我が同文の国なり。宜く速に勅使を発遣して旧好を修め鼎立の勢い立つべし」と述べた。 ※贏輸(えいしゅ)輸贏(しゅえい)勝ち(贏)負け(輸)。勝負 だから、「えいじゃく」かな?字面から「勝てない」w だが、政府が「開国和親」「万国公法」遵守の外交政策と近代化方針を取る決意を固めたのに対し、支那や朝鮮は二十世紀(現在も、と言っても良い)に至るまで「中華思想」「華夷体制」の維持にこだわったから、彼らとの国交調整は困難を極めるのである。 (大正大学教授・高知大学 名誉教授福地惇) |